山本ひろ子のプロフィール

基本情報

初当選

2011年(4期目)

生年月日

1967年12月21日

出身地

栃木県宇都宮市

出身校

東京栄養専門学校

家族構成

夫・長女・長男・次女・次男(Z世代)

資格

介護福祉士、栄養士、調理師  、臨床美術士、ホームドゥーラ

趣味

料理、バレーボール

好きな物・事

パンダ、ペンギン、果物(フルーツパフェ)、野菜、植物、滝、家事

常任委員会

区民生活委員会

特別委員会

DX・議会改革特別委員会委員長

その他委員会

副議長、保健福祉委員会委員長、総務財政委員会副委員長、道路交通対策委員会副委員長、広報委員会委員長等歴任

略歴

1967年

栃木県宇都宮市で誕生

1982年

私立宇都宮短期大学付属高等学校入学

1985年

日本国民食(株)就職

1986年

東京栄養専門学校入学

1990年

社会福祉法人 浴風会 第二南陽園特別養護老人ホームへ転職

1995年

結婚、流産を機に老人ホーム退職

1997年

第一子(女の子)出産

1999年

夫の務める会社が倒産、杉並区営高齢者住宅で再就職

2000年

第二子(男の子)出産

2002年

第三子(女の子)出産

2004年

第四子(男の子)出産

2010年

公明党の推薦を受け区議会議員に立候補

2011年

杉並区議会議員選挙 初当選

2015年

杉並区議会議員選挙 当選

2019年

杉並区議会議員選挙 当選

2023年

杉並区議会議員選挙 当選

生い立ち

4200グラムのビックベビー

出産予定日から2週間が過ぎいよいよ出そうという日、昭和42年12月21日4200グラムのビックベビーとして誕生しました。
誕生の時から人に指図されるのが嫌な性格だったのかと、持って生まれた性格は変わらないとものと得心しました。

父が務める会社からいただいた我が家にとって初クリスマスケーキ

私の原点は両親の愛

大きく生まれ、病弱な姉とは対照的に病気一つせず活発に成長。野球好きな父は、息子とキャッチボールをするのが夢だったようで、男勝りで破天荒な私に「ひろ子はお母さんのお腹に忘れ物をしたんだな」とよく言われていました。そんな私を微笑ましく見守ってくれていた両親の愛を子ども心にしっかり感じていました。

共働き家庭で、学校から帰るとランドセルを置いて田んぼや畑、原っぱを近所の友達と走りまわる日々。古き良き昭和の日本の原風景が脳裏に焼き付いています。真面目で愉快で優しい父、明るく大らかな母、質素な生活の中にも大切なものを学びました。家族のため人のために精一杯生きる両親の姿が私の原点のように思います。

水泳部創設、生徒会長…と多忙な学生生活

我が家には、多くの人が訪れていました。大きな鍋でけんちん汁やカレーなど振舞う母。いつしか人の笑顔のために尽くせる自分にと考えるようになりました。就労で苦労した母は、これから女性も手に職をつける時代。食べることは一生の事。など料理に興味のある私に遠回しにアドバイスをしてくれていたと思います。

私立高校の調理科に進学、1年間アルバイトで高い学費を賄いました。2年時に体育施設・プールが新設されることになり、水泳が好きな私は水泳部創設を計画!顧問の先生を探し、部員を集めこれを実現しました。また調理科から生徒会に立候補することとなり、担任に推され断り切れずに立候補。水泳部初代部長、調理科初の生徒会長と多忙な中にも充実の日々を過ごしました。

栄養学の教科書で目にした、貧困な国のやせ細った母子に栄養指導する栄養士の写真。「こうした人々の力になりたい」と栄養士を志し、奨学金制度のある給食会社へ就職と共に上京。1年間の選考試験を潜り抜けて、東京栄養専門学校へ進学。学校から職場へ直行の2年間、苦学の道を歩みました。

栄養士から介護福祉士へ、結婚と流産

栄養士として銀行の社員食堂で従事する中、20歳の時に知った高齢者の孤独死が脳裏から離れず進路を考えるように…。祖母が大好きだった私は、幼いころから一人でよく訪れては、祖母から戦前、戦中、戦後の話を聞いていました。「この国を築き、豊かさをもたらしてくれた高齢者の方々の最終章に関わり、孤独死をなくしたい」との思いが強くなり、転職を決意。杉並区役所の高齢者施策課で熱い思いを訴えると、「ここは職業斡旋所ではありませんよ」と言われながらも、私の熱心さに押されたのか区内の施設を紹介してくれました。そこで面接を受け、念願の特別養護老人ホームへの転職を叶えました。

27歳の時、現在の主人と結婚、流産を機に退職しました。酷使していた身体を休めるときと心をあらため、西荻窪駅前の市場乾物屋さんでパートをしながら家計を支えました。

出産と倒産が重なり貯金が底を尽きる

その後、第1子を授かり無事出産。第2子を宿して間もなく、厳しい経営状態が続いていた主人の務める会社が倒産しました。

西荻窪のマンションの家賃は払えない!!私も働かねば…と高齢者住宅の生活協力員に応募。特別養護老人ホームで働きながら介護福祉士の国家資格を得ていたことが身の助けとなり、直ぐに採用となりました。この時「女性も手に職を持つ時代」という母の言葉を思い出し感謝しました。採用先である「杉並区営高齢者住宅 高円寺南みどりの里」に転居となりました。管理人室に住み、高齢者の安否確認、相談業務、緊急時の対応を行う緊張感の絶えない仕事でしたが、11年間勤め「高齢者の孤独死をなくしたい」との思いが図らずも叶えられました。

住まいと私の仕事は確保できたものの、主人は7ヶ月仕事が決まらず失業手当も切れ貯金も底をつき来月出産を迎える大ピンチに…!
しかし、「住まいは確保されている。衣服は有るもので充分。食費は高齢者住宅の報酬で何とかする。今、必要なもの以外手放そう。衣食住と命、これさえあれば人は生きていける!生きるために本当に必要な物はさほど多くないんだ」これを学ぶための試練だったのかと気付いた時、感謝にかわりました。

穏やかな気持ちで洗濯物をたたんでいると、主人から電話が入りました。50社程履歴書を送り2次面接に漕ぎつけた会社からの採用の知らせでした。その日は私の誕生日、最高のバースデープレゼントとなりました。

発達障害のわが子と向き合う日々

初めての子育ては分からないことだらけ。子どもってこんなもの?と思いながらの育児でしたが、一寸違うかも?と思い始めたのが、長女2歳3ヵ月の頃。

  • 預け出した保育園にお迎えに行くといつも一人で友達と違うことをしている。
  • 児童館では、みんながお母さんの膝の上で手遊びをしているのに、室内を走り回っている。
  • 公園では力量以上のことをしたくて高いところから飛び降りようとしたり、ブランコを漕いでいる中に突進して背中から押し上げられ空を飛んでしまったり…。

外では、一瞬も油断できないくらいハラハラしていました。テレビで知った「発達障害」という文字。主人が購入してきた発達障害の本を読み、多分そうなのだと思いました。正直、このまま私一人では虐待してしまうかも!と自信をなくし、子育てを誰かに関わって貰いたいと思い始めていました。

そんな中で始めたのがピアノです。おもちゃには興味を示さず、音の出るものを探してはおもちゃにしている。遠くの微かな音を聞き分けている。娘は耳が良いと感じていた私は、この先自分を表現する道具としてピアノを習ってはと思いました。娘に尋ねるとやりたいという事で習い始めることに。ピアノを弾き始めるまでに半年以上かかりましたが、その後の成長は著しいものがありました。

そんな娘が5歳になり、2歳7ヶ月離れた長男と明らかに違う事を確信し、本に掲載されていた病院に行きました。検査の結果、知能や発育が10歳児程度と2歳児程度の部分があると言われ、アンバランスな状態であることが分かりました。

ここでは語りつくせない様々な思いをしてきましたが、今、笑顔で生きていてくれることだけで充分との思いです。そんな経験をしてきたから、子育て支援、お母さん支援には並々ならぬ想いを抱いているのです。

ごく普通のママが議員に

どこにでもいる中年のおばさん、隣りにいるママ友が突然区議会議員に立候補?!友人、知人はきっとそう思ったと思います。私自身、全く思いも寄らなかったことです。公明党は100%推薦されての立候補、出たい人より出したい人そう聞いてはいましたが…まさか自分に白羽の矢が当たるとは!!丁重にお断りをしましたが、それでもよく考えてと再三推していただきました。

「これから本格的に少子高齢社会を迎える、山本さんのこれまでの経験を是非活かして欲しい。人に尽くしてきたこれまでの人生と何も変わらない。バッチをつけることで、より多くの人に尽くせることになる。」との有難い言葉をいただき、中途半端な答えはできないと更に深く考えました。

女性に対する人生の師の言葉に「女性は40代からが勝負」とあり、当時40歳になっていた私は今後どう生きていきたいのか自分に問うていました。これまでの人生を振り返ると、山坂ありつつも私の人生は思い通り願い通りに進んでいたことに気付きました。そして、多くの人に支えられて今があることに気付き、「人のために私心を無くし全てを捧げられる人になりたい!!」という思いが溢れ、これからは報恩の人生を歩もうと決意していました。43歳の私に降って湧いた出馬を苦悩する中で、ハッとそのことを思い出したのです。そして「その心に嘘、偽りはない!」と断る理由はなくなりました。

13年目の決意表明

こんな自分に期待を寄せ、手弁当でご支援くださる皆さんを悲しませること、裏切ることはできません。何としてもご期待に応えたい!!応援して良かったと思っていただきたい!!その一心で12年間走り抜いてきました。

公明党は定年制があります。「20年頑張って!!」と区議会に送り出していただき、この度4期目の当選を果すことができました。折り返し地点を過ぎ、残された時間はそう多くはありません。自身の使命を果たすため、これまでのすべての経験を活かし、今まで以上の力を出し切って働いてまいります!
社会的に立場の弱い子どもや女性、高齢者、障がい者、性的マイノリティ、外国人などすべての人の人権が守られる社会、人間共和の社会を築いてまいります。今後とも山本ひろ子の仕事を監視し続けていただきますようお願い申し上げます。